パンデミックから見る、カミュの「ペスト」
若い頃に読んだ、カミュのペストを読み返してます。
今回のコロナに似たところがあって、ちょっとこわごわ、読み耽ってます。読んでいるうち、朝になってしまいました。
~~~~~~~
1.パンデミックの始まり
アルジェリアのオランで、死んでいくのに非快適で難渋を味わう特異なことがこの町に起きる。
1940年代、4月16日の朝、医師であるベルナール・リウーが、病院でいないはずの鼠の死骸に躓くのをきっかけに、別の大きな鼠が七転八倒の挙句、血を吐いて死ぬのを目撃してしまうところから物語が始まる。
そしてその後、ゴミ箱からうじゃうじゃと鼠が大量に発生することになるのだ。
あれよあれよという間に病院の門番の調子が悪くなる。これをリウーは鼠にショックを受けたものと判断。鼠の姿が消えれば順調になると、高を括って(たかをくくって)いるのだが・・・。
ところが、地下室から屋根裏から次々と鼠の死体が見つかり出す。市の鼠害対策課(そがいたいさくか)に連絡するも、どんどんと鼠の死体が増えていき、朝に死んだ鼠を一掃してもその日のうちに多数の鼠を見出すようになってしまう。
とかくするうち、報知通信社は4月28日には約8000匹の鼠が収拾されたと伝えると、不安になった人々は根本的な対策を要求し当局を非難する。
翌日、この現象がやみ、人々はほっとするも、その日の正午、リウーは門番の様子の変調を知ることになる。
しかし、隔離するも遅かりしで、門番は、息を切らし、できものができて、リンパ腺が腫れ、高熱を発し、吐瀉(としゃ)して死ぬのであった。
ここで大ホテルに住む謎の男、ジャン・タルーが登場。彼は気づいたことをいち早く正確に手帳に書き留め、ノートを作るようなまめな男。
彼はまず、タルーは鉄道員の話から、転轍(てんてつ)を担当するキャンという男が、不可解な病で死んだことを知る。
また、タルーは猫を呼ぶ老人を見かけたが猫がいないことに気づくのだ。猫は鼠の大量死におびえてどこかに行ってしまったらしい。
ここまで死者2名、1名は48時間以内に、もう1名は3日以内に亡くなった。
2~3日の間に、20名ほどの類似の症例が出てしまったのだ。
そのうちに、新聞も何も言わなくなるが、県庁と市長が不安を抱き始める。
医者たちが2~3件以上の症例を知らないでいた間は誰も動き出そうとしなかったが、死者の合計が驚倒すべきものとなり「流行病」の「ペスト」ではないか疑い始める。
48時間に11名の死者が出て、ペストの疑いが確信に変わる。
翌日、ようやくリウーは県庁の保健委員会を召集してもらうことができる。
(今回のコロナに於ける日本の対応と一緒で、すべてが後手後手なんだよね・・・)
県には血清がないという。県知事は神経質に。なお、リウーはペストと認めているが、未だなお、ペストと認めない人も。新聞も扱いが軽いままだが、世間を不安がらせない配慮か。
患者が30名以上出ているのに、ベッドが80床しかない。この日、40名の死者が出る。
~~~~~~~
さて、ここまでで印象に残った個所があります。^±^;
序盤なのにか?(゚Д゚)ノx±x。
僕の心をひかれる唯一のことは・・・。
それは、心のなかの平和を見出すことだからね。
心の中は常時、平和でありたいものです。このような不安な状況に陥ると、人間はとかく荒ぶれたりギスギスとしがちです。
カミュというと、難しい内容と思われがちですが、読みやすいです。特にこのご時世ですから、現代と比較しながら読んでいます。
あくまでも、序盤ですけどね。^±^;
あと、(括弧書き)でも書いた通り、「後手後手の対応」が致命傷だったということも付け加えておきます。
~~~~~~~
2.ペスト認定後
死者が鰻上りになって「ペスト」と認定。
市の門が閉鎖、いわゆるパンデミックによる都市封鎖開始、集団隔離される。身近な家族、恋人同士との別離。文通すら許されず、街が鎖される(とざされる)。電報だけが唯一の手段となる。
市は世間から「追放」されていく。ペストが市民たちに、陰鬱な市街地を堂々巡りするより仕方なくさせ、市民は「あきらめ」の境地に進まざるを得なくなる。
それは囚人、流刑者の辛苦にも似ている。動かなくなった街は、まるで永久に這い上がれない穴底にいるようで、「耐え難い休暇」がいつまで続くのか。見捨てられた絶望状態に、街があえぐ。
そんな中で、来る日も来る日も死亡数の確認だ。20万の都市に、第3週目は302名の死者が出たが、この時はまだ公衆の反応は即座ではなかった。想像できなかったのだ。市民は誰一人とて毎週何人が犠牲になるかも死亡率も把握する者がいなかった。
第5週目には321名の死亡者、第6週目には345名と相次いで増加すると、市民たちはさすがに不安になるが、それでも一時的なものという印象を依然持ち続けていた。
季節は6月終わり、夏の暑さが始まる。説教のあった日曜日を印象付けた季節遅れの雨の翌日、夏が一足飛びにやってくる。この激しい熱風と灼熱がたちまち襲い掛かり、この週の死者は700名近くになった。この犠牲者の鰻上りに消沈の気が町を襲う。
町はずれの辺りは、家々の間は活気が薄れ、戸口で暮らしてた界隈の扉は閉ざされ、いくつかの家からうめき声が聞こえる。市民は暑さと沈黙に参ってしまっていた。
新聞には、町から出ることを重ねて禁止し、違反者には投獄の刑に処した。パトロール隊が市中を巡回し、時折犬や猫を殺す乾いた発砲の音が響く。このけたたましい爆発音が市中をただならぬ空気を漂わす原因ともなる。
病疫の一段階が画されたのは、既にラジオが92名、107名、120名と、毎日の死者を報じるようになってからだ。
また別のところでは、ハッカのドロップが薬屋から姿を消す。多くの人々が、不測の感染を予防するためにそれをしゃぶるようになったからと、新聞が記す。
明け方の街の店はすべて閉まり、そのうちに街のいくつかが「ペストのため閉店」との貼り紙がしてある。新聞の売り子は街角に背もたれ、夢遊病者のような身振りで街灯に向けて新聞を差し出している。
「ペストは秋まで続くか?」、「死亡者百二十四名に達す」などと書かれた新聞は、やがて売り子の手から町中に散らばっていくだろう。
用紙の危機も激化し、紙不足に陥る。定期刊行物は頁数を減らすことを余儀なくされたにもかかわらず、「病疫時報」という別の新聞が「災禍(さいか)と戦う意志あるすべての人々に」との旗印のもとで創刊されたが、結局この新聞はペストの予防に確実な効力のある様々な新製品の広告掲載に急速に限定されてしまった。
新聞は、町はずれから満員でやってくる、唯一の輸送手段になってしまった電車で売られる。昇降台も手すりもはち切れそうなほど人々を積み込んで、停留所で電車が積んできた一団の男女を吐き出す。頻繁に、ただの不機嫌だけに減員する喧嘩が勃発、その不機嫌が慢性的となる。
正午になるとレストランが瞬く間に満員になる。食糧補給の問題を簡単にしてくれるからだ。もちろん伝染の不安があり「煮沸済みです」と抗告した飲食店もある。
二時ごろになると町は次第に空っぽになる。理由は、この時間が沈黙と埃と日光とペストが街頭で相会する時間帯であるからだ。
夕方になると、一時期は人気が絶えてたが、今では涼気(りょうき)が訪れ始めるとくつろぎをもたらすために、皆、街頭に出ていき、しゃべったり喧嘩したりいちゃつきあったりする。
まだこの時は「ペストの頂点」には達してなかった。
うち続く週また週にわたるペストに取り込められた人々は、それぞれに精一杯の奮闘をしていたのだ。
~~~~~~~
カミュの「耐え難い休暇」というのが文字が印象的でした。この文字が脳裏にくっきりと焼き付きました。^±^;
この言葉は確かに今と共通しています。・・・が。
情報のない怖さは現代よりずっと耐え難い気もしましたね。内向きにならざるを得ないですよ。
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3.ペスト極限期
8月半ば。ちょうどこの年の半ばごろになって、風が起こり、ペストの蔓延した市中に幾日も吹き続けた。人々もまばらになり、風だけが絶え間のないうなり声をあげてあるようになってしまった。
これまで、ペストは、町の中心部よりも、人口稠密で住み心地の良くない外郭区域のほうにずっと多くの犠牲者を出していたが、突如としてオフィス街にも近づき、そこに腰を据えたように思わせた。住民たちはペストを風のせいにし始めた。
市内でも、特に被害のひどい地域を隔離し、必要欠くべき職務以外立ち入り禁止にすると、そこの住民はこの措置を「弱者いじめ」と捉え、その他の地域の住民は自分たちの地域はまだましだという「慰め」を見出していた。
ほぼこれと同時に市の西側にある別荘街に火事が頻繁に起きる。喪の悲しみと半狂乱になった人々が、ペストを焼き殺す幻想に襲われ、自分の家に火を放ったようだ。
牢獄では、一つの共同体となっており、看守たちも囚人に劣らず、病疫に対する年貢を納め、完全無欠の正義が牢獄内に行われていた。市の当局が職務執行中に死亡した看守に勲章を授与すると、軍が猛抗議した。当局が軍の抗議を了承したが、最初に与えた看守の勲章を取り返すこともできず、結局不満は全員に及んだ。
どんなに用心してみても、いつかは感染してしまうのである。かくして、ペストは事実上、全市を占領するに至った。それでも8月の終わりまでは、曲がりなりにも、市民たちは秩序正しさを以て生活を送っていた。8月に入って以来、事実上ペストが頂上に達した状態が持続するにも拘わらず・・・。
この町のささやかな墓地が提供しうる可能性をはるかに超えてしまった。塀の一部を取り壊し、犠牲者のために隣の地所へ捌け口を求めても追いつかず、別の方策を考えざるを得なくなった。埋葬を夜間に行い、多くの死体を救急車で搬送。大急ぎで死体を墓穴へ投げ込み、それを石灰で埋め込んだ。
しかしやがて、土葬でも間に合わず、市は火葬を余儀なくされ、遺体はすべて焼き場に回された。
さらに廃線になった市電を利用して、そこに遊覧者や牽引車を改造したものを走らせ、死体を運んだ。
これが病疫の極限に達した最後の状態だった。幸い、病疫はその後増大しなかった。最悪、ペストで亡くなるペースがさらに早まり葬送に追いつかなくなれば、そのまま死者を海に捨てることも医者のリウーは考えていた。
4.ペスト極限後
9月と10月の2か月間、ペストは町をその足元にひれ伏されていた。数十万の人間が、いつ果てるとも見えぬ週また週の間を、なおも足踏みし続けていた。保健隊の人々は、もうどんなにしても疲労をこなしきれなくなっていた。
医者のリウーは、友人たち、そして自分自身にさえ、奇妙な無関心さが増大していることに気づいた。
ペストに関係あるあらゆる報道に活発な関心を示していたのも、失われていた。新聞記者のレイモン・ランベールは、自分のいるホテルに開設された予防隔離所で管理を任されていたが、急に病気の兆候を現す人々のために考案された即時退去の手順もすっかり心得ていた。
日夜めいめいの仕事に没頭している、そのほかの連中は、新聞も読まず、ラジオも聞かなかった。誰かがその報告をしても、彼らは興味を持つ素振りを見せるが上の空で、労役に疲れ果て、自分の日々の任務に精一杯だった。それは大戦争の戦闘員において想像されるような態度だった。
吏員(役人)であるジョセフ・グランは、相変わらずペストのために必要となった計算を行い続けていたが、疲労が顕著だった。ペストが終わったら少なくても一週間は完全休暇を取ろうと考え、現在の仕事はその期待に支えられていた。
その週もまた翌週も、果てしない天災との戦いを続けていき、人々は誰しもが疲労困憊(ひろうこんぱい)のさなかにいた。
老人医師のカステルの血清が試されたのは10月の下旬だった。事実上、リウーの最後の希望でもあった。万一これも失敗した場合、街は病禍(びょうか)が延々続くか、あるいは何の理由もなく終息するか、そのなすままに任されていると確信させられた。
折しも、少年が運ばれた。この時期になるとペストは老若男女を問わず猛威を振るっていた。リウーは少年を看取るのは初めてであった。が、虚しくも、少年は長い苦悶の挙句に死んでしまうのであった。同時に、長く持ちこたえたことでもあったのだが。
5. 終息
4月以来鼠の死体は一匹も発見されなかったが、何か月ぶりかでゴソゴソと動く生きた鼠。
ペストの終息も思いがけずやって来たという。
しかし市民たちはぬか喜びしなかった。
犠牲者もすっかり減り、あの途方もない悲しい日々が嘘のように、統計は下降していった。
事実、ペストは今日明日に終息しなかったが、妥当に考えて期待されたよりも早く衰退していった。
映画館やカフェは前のように儲かり、群衆は街に流れ込む。
1月の1ヶ月間、群衆は興奮と沈滞とが代る代るやって来る状態を経験した。
人々の心に、それでも明日は生きていないのではないかと不安がる一方で、物価の顕著な下落が記録された。
ペストはまだ終わったわけでなかったが、すべての人々の頭の中では、既に数週間先の想いが巡らされる。果てしない鉄路の上に汽車が走り海の上に船が白波を立てる。
ひとしきり騒ぎがいっそう激しく賑やかになったとき、タルーは一匹の猫も発見したのだった。
ただ、悲しい出来事もあった。コタールの気が触れ、拳銃を発砲していたのだ。彼は警官に取り押さえられ、倒れ死んだ。
リウーはペストの死者のために記念碑を立てることを決意する。
ペスト菌は決して死ぬことはなく、数十年の間、家具、下着類に眠り続け、辛抱強く待ち続けるであろう。
ペストは人間に不幸と教訓をもたらすために、再び鼠どもを呼び覚まし、どこかの幸福な都市に差し向けるに違いない。
~~~~~~~
今回は、カミュの「ペスト」を、パンデミックの観点から見ましたが、いかがでしたでしょうか。

この作品は、パンデミックだけでなく、人間の心理から読んでもよし、恐怖を中心に読んでもよし、多角的な読み方ができます。
また、1992年に「プレイグ」という映画にもなっております。
「ペスト」に忠実なストーリーだそうですが。
映画も見てみたいなあ。^±^
今回のコロナに似たところがあって、ちょっとこわごわ、読み耽ってます。読んでいるうち、朝になってしまいました。
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1.パンデミックの始まり
アルジェリアのオランで、死んでいくのに非快適で難渋を味わう特異なことがこの町に起きる。
1940年代、4月16日の朝、医師であるベルナール・リウーが、病院でいないはずの鼠の死骸に躓くのをきっかけに、別の大きな鼠が七転八倒の挙句、血を吐いて死ぬのを目撃してしまうところから物語が始まる。
そしてその後、ゴミ箱からうじゃうじゃと鼠が大量に発生することになるのだ。
あれよあれよという間に病院の門番の調子が悪くなる。これをリウーは鼠にショックを受けたものと判断。鼠の姿が消えれば順調になると、高を括って(たかをくくって)いるのだが・・・。
ところが、地下室から屋根裏から次々と鼠の死体が見つかり出す。市の鼠害対策課(そがいたいさくか)に連絡するも、どんどんと鼠の死体が増えていき、朝に死んだ鼠を一掃してもその日のうちに多数の鼠を見出すようになってしまう。
とかくするうち、報知通信社は4月28日には約8000匹の鼠が収拾されたと伝えると、不安になった人々は根本的な対策を要求し当局を非難する。
翌日、この現象がやみ、人々はほっとするも、その日の正午、リウーは門番の様子の変調を知ることになる。
しかし、隔離するも遅かりしで、門番は、息を切らし、できものができて、リンパ腺が腫れ、高熱を発し、吐瀉(としゃ)して死ぬのであった。
ここで大ホテルに住む謎の男、ジャン・タルーが登場。彼は気づいたことをいち早く正確に手帳に書き留め、ノートを作るようなまめな男。
彼はまず、タルーは鉄道員の話から、転轍(てんてつ)を担当するキャンという男が、不可解な病で死んだことを知る。
また、タルーは猫を呼ぶ老人を見かけたが猫がいないことに気づくのだ。猫は鼠の大量死におびえてどこかに行ってしまったらしい。
ここまで死者2名、1名は48時間以内に、もう1名は3日以内に亡くなった。
2~3日の間に、20名ほどの類似の症例が出てしまったのだ。
そのうちに、新聞も何も言わなくなるが、県庁と市長が不安を抱き始める。
医者たちが2~3件以上の症例を知らないでいた間は誰も動き出そうとしなかったが、死者の合計が驚倒すべきものとなり「流行病」の「ペスト」ではないか疑い始める。
48時間に11名の死者が出て、ペストの疑いが確信に変わる。
翌日、ようやくリウーは県庁の保健委員会を召集してもらうことができる。
(今回のコロナに於ける日本の対応と一緒で、すべてが後手後手なんだよね・・・)
県には血清がないという。県知事は神経質に。なお、リウーはペストと認めているが、未だなお、ペストと認めない人も。新聞も扱いが軽いままだが、世間を不安がらせない配慮か。
患者が30名以上出ているのに、ベッドが80床しかない。この日、40名の死者が出る。
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さて、ここまでで印象に残った個所があります。^±^;
序盤なのにか?(゚Д゚)ノx±x。
僕の心をひかれる唯一のことは・・・。
それは、心のなかの平和を見出すことだからね。
心の中は常時、平和でありたいものです。このような不安な状況に陥ると、人間はとかく荒ぶれたりギスギスとしがちです。
カミュというと、難しい内容と思われがちですが、読みやすいです。特にこのご時世ですから、現代と比較しながら読んでいます。
あくまでも、序盤ですけどね。^±^;
あと、(括弧書き)でも書いた通り、「後手後手の対応」が致命傷だったということも付け加えておきます。
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2.ペスト認定後
死者が鰻上りになって「ペスト」と認定。
市の門が閉鎖、いわゆるパンデミックによる都市封鎖開始、集団隔離される。身近な家族、恋人同士との別離。文通すら許されず、街が鎖される(とざされる)。電報だけが唯一の手段となる。
市は世間から「追放」されていく。ペストが市民たちに、陰鬱な市街地を堂々巡りするより仕方なくさせ、市民は「あきらめ」の境地に進まざるを得なくなる。
それは囚人、流刑者の辛苦にも似ている。動かなくなった街は、まるで永久に這い上がれない穴底にいるようで、「耐え難い休暇」がいつまで続くのか。見捨てられた絶望状態に、街があえぐ。
そんな中で、来る日も来る日も死亡数の確認だ。20万の都市に、第3週目は302名の死者が出たが、この時はまだ公衆の反応は即座ではなかった。想像できなかったのだ。市民は誰一人とて毎週何人が犠牲になるかも死亡率も把握する者がいなかった。
第5週目には321名の死亡者、第6週目には345名と相次いで増加すると、市民たちはさすがに不安になるが、それでも一時的なものという印象を依然持ち続けていた。
季節は6月終わり、夏の暑さが始まる。説教のあった日曜日を印象付けた季節遅れの雨の翌日、夏が一足飛びにやってくる。この激しい熱風と灼熱がたちまち襲い掛かり、この週の死者は700名近くになった。この犠牲者の鰻上りに消沈の気が町を襲う。
町はずれの辺りは、家々の間は活気が薄れ、戸口で暮らしてた界隈の扉は閉ざされ、いくつかの家からうめき声が聞こえる。市民は暑さと沈黙に参ってしまっていた。
新聞には、町から出ることを重ねて禁止し、違反者には投獄の刑に処した。パトロール隊が市中を巡回し、時折犬や猫を殺す乾いた発砲の音が響く。このけたたましい爆発音が市中をただならぬ空気を漂わす原因ともなる。
病疫の一段階が画されたのは、既にラジオが92名、107名、120名と、毎日の死者を報じるようになってからだ。
また別のところでは、ハッカのドロップが薬屋から姿を消す。多くの人々が、不測の感染を予防するためにそれをしゃぶるようになったからと、新聞が記す。
明け方の街の店はすべて閉まり、そのうちに街のいくつかが「ペストのため閉店」との貼り紙がしてある。新聞の売り子は街角に背もたれ、夢遊病者のような身振りで街灯に向けて新聞を差し出している。
「ペストは秋まで続くか?」、「死亡者百二十四名に達す」などと書かれた新聞は、やがて売り子の手から町中に散らばっていくだろう。
用紙の危機も激化し、紙不足に陥る。定期刊行物は頁数を減らすことを余儀なくされたにもかかわらず、「病疫時報」という別の新聞が「災禍(さいか)と戦う意志あるすべての人々に」との旗印のもとで創刊されたが、結局この新聞はペストの予防に確実な効力のある様々な新製品の広告掲載に急速に限定されてしまった。
新聞は、町はずれから満員でやってくる、唯一の輸送手段になってしまった電車で売られる。昇降台も手すりもはち切れそうなほど人々を積み込んで、停留所で電車が積んできた一団の男女を吐き出す。頻繁に、ただの不機嫌だけに減員する喧嘩が勃発、その不機嫌が慢性的となる。
正午になるとレストランが瞬く間に満員になる。食糧補給の問題を簡単にしてくれるからだ。もちろん伝染の不安があり「煮沸済みです」と抗告した飲食店もある。
二時ごろになると町は次第に空っぽになる。理由は、この時間が沈黙と埃と日光とペストが街頭で相会する時間帯であるからだ。
夕方になると、一時期は人気が絶えてたが、今では涼気(りょうき)が訪れ始めるとくつろぎをもたらすために、皆、街頭に出ていき、しゃべったり喧嘩したりいちゃつきあったりする。
まだこの時は「ペストの頂点」には達してなかった。
うち続く週また週にわたるペストに取り込められた人々は、それぞれに精一杯の奮闘をしていたのだ。
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カミュの「耐え難い休暇」というのが文字が印象的でした。この文字が脳裏にくっきりと焼き付きました。^±^;
この言葉は確かに今と共通しています。・・・が。
情報のない怖さは現代よりずっと耐え難い気もしましたね。内向きにならざるを得ないですよ。
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3.ペスト極限期
8月半ば。ちょうどこの年の半ばごろになって、風が起こり、ペストの蔓延した市中に幾日も吹き続けた。人々もまばらになり、風だけが絶え間のないうなり声をあげてあるようになってしまった。
これまで、ペストは、町の中心部よりも、人口稠密で住み心地の良くない外郭区域のほうにずっと多くの犠牲者を出していたが、突如としてオフィス街にも近づき、そこに腰を据えたように思わせた。住民たちはペストを風のせいにし始めた。
市内でも、特に被害のひどい地域を隔離し、必要欠くべき職務以外立ち入り禁止にすると、そこの住民はこの措置を「弱者いじめ」と捉え、その他の地域の住民は自分たちの地域はまだましだという「慰め」を見出していた。
ほぼこれと同時に市の西側にある別荘街に火事が頻繁に起きる。喪の悲しみと半狂乱になった人々が、ペストを焼き殺す幻想に襲われ、自分の家に火を放ったようだ。
牢獄では、一つの共同体となっており、看守たちも囚人に劣らず、病疫に対する年貢を納め、完全無欠の正義が牢獄内に行われていた。市の当局が職務執行中に死亡した看守に勲章を授与すると、軍が猛抗議した。当局が軍の抗議を了承したが、最初に与えた看守の勲章を取り返すこともできず、結局不満は全員に及んだ。
どんなに用心してみても、いつかは感染してしまうのである。かくして、ペストは事実上、全市を占領するに至った。それでも8月の終わりまでは、曲がりなりにも、市民たちは秩序正しさを以て生活を送っていた。8月に入って以来、事実上ペストが頂上に達した状態が持続するにも拘わらず・・・。
この町のささやかな墓地が提供しうる可能性をはるかに超えてしまった。塀の一部を取り壊し、犠牲者のために隣の地所へ捌け口を求めても追いつかず、別の方策を考えざるを得なくなった。埋葬を夜間に行い、多くの死体を救急車で搬送。大急ぎで死体を墓穴へ投げ込み、それを石灰で埋め込んだ。
しかしやがて、土葬でも間に合わず、市は火葬を余儀なくされ、遺体はすべて焼き場に回された。
さらに廃線になった市電を利用して、そこに遊覧者や牽引車を改造したものを走らせ、死体を運んだ。
これが病疫の極限に達した最後の状態だった。幸い、病疫はその後増大しなかった。最悪、ペストで亡くなるペースがさらに早まり葬送に追いつかなくなれば、そのまま死者を海に捨てることも医者のリウーは考えていた。
4.ペスト極限後
9月と10月の2か月間、ペストは町をその足元にひれ伏されていた。数十万の人間が、いつ果てるとも見えぬ週また週の間を、なおも足踏みし続けていた。保健隊の人々は、もうどんなにしても疲労をこなしきれなくなっていた。
医者のリウーは、友人たち、そして自分自身にさえ、奇妙な無関心さが増大していることに気づいた。
ペストに関係あるあらゆる報道に活発な関心を示していたのも、失われていた。新聞記者のレイモン・ランベールは、自分のいるホテルに開設された予防隔離所で管理を任されていたが、急に病気の兆候を現す人々のために考案された即時退去の手順もすっかり心得ていた。
日夜めいめいの仕事に没頭している、そのほかの連中は、新聞も読まず、ラジオも聞かなかった。誰かがその報告をしても、彼らは興味を持つ素振りを見せるが上の空で、労役に疲れ果て、自分の日々の任務に精一杯だった。それは大戦争の戦闘員において想像されるような態度だった。
吏員(役人)であるジョセフ・グランは、相変わらずペストのために必要となった計算を行い続けていたが、疲労が顕著だった。ペストが終わったら少なくても一週間は完全休暇を取ろうと考え、現在の仕事はその期待に支えられていた。
その週もまた翌週も、果てしない天災との戦いを続けていき、人々は誰しもが疲労困憊(ひろうこんぱい)のさなかにいた。
老人医師のカステルの血清が試されたのは10月の下旬だった。事実上、リウーの最後の希望でもあった。万一これも失敗した場合、街は病禍(びょうか)が延々続くか、あるいは何の理由もなく終息するか、そのなすままに任されていると確信させられた。
折しも、少年が運ばれた。この時期になるとペストは老若男女を問わず猛威を振るっていた。リウーは少年を看取るのは初めてであった。が、虚しくも、少年は長い苦悶の挙句に死んでしまうのであった。同時に、長く持ちこたえたことでもあったのだが。
5. 終息
4月以来鼠の死体は一匹も発見されなかったが、何か月ぶりかでゴソゴソと動く生きた鼠。
ペストの終息も思いがけずやって来たという。
しかし市民たちはぬか喜びしなかった。
犠牲者もすっかり減り、あの途方もない悲しい日々が嘘のように、統計は下降していった。
事実、ペストは今日明日に終息しなかったが、妥当に考えて期待されたよりも早く衰退していった。
映画館やカフェは前のように儲かり、群衆は街に流れ込む。
1月の1ヶ月間、群衆は興奮と沈滞とが代る代るやって来る状態を経験した。
人々の心に、それでも明日は生きていないのではないかと不安がる一方で、物価の顕著な下落が記録された。
ペストはまだ終わったわけでなかったが、すべての人々の頭の中では、既に数週間先の想いが巡らされる。果てしない鉄路の上に汽車が走り海の上に船が白波を立てる。
ひとしきり騒ぎがいっそう激しく賑やかになったとき、タルーは一匹の猫も発見したのだった。
ただ、悲しい出来事もあった。コタールの気が触れ、拳銃を発砲していたのだ。彼は警官に取り押さえられ、倒れ死んだ。
リウーはペストの死者のために記念碑を立てることを決意する。
ペスト菌は決して死ぬことはなく、数十年の間、家具、下着類に眠り続け、辛抱強く待ち続けるであろう。
ペストは人間に不幸と教訓をもたらすために、再び鼠どもを呼び覚まし、どこかの幸福な都市に差し向けるに違いない。
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今回は、カミュの「ペスト」を、パンデミックの観点から見ましたが、いかがでしたでしょうか。

この作品は、パンデミックだけでなく、人間の心理から読んでもよし、恐怖を中心に読んでもよし、多角的な読み方ができます。
また、1992年に「プレイグ」という映画にもなっております。
「ペスト」に忠実なストーリーだそうですが。
映画も見てみたいなあ。^±^
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