鼎の不思議
今日は、「鼎(かなえ)」の話。
のぞみ、かなえ、たまえ・・・ではありましぇん。+±+
欽どこか!(゚Д゚)ノx±x
鼎はもともとは金瓮(かなへ)=在の鍋・釜の用に当てた古代中国の金属製の器の意味です。
肉、魚、穀物を煮炊きする土器として出現したが、同時に宗廟において祖先神を祀る際にいけにえの肉を煮るために用いられたことから礼器の地位に高められ、精巧に作られた青銅器の鼎は国家の君主や大臣などの権力の象徴として用いられたといいます。
また、鼎は3本足なので、それを譬えにする言葉があります。
鼎立(ていりつ)=三者が互いに対立すること。
ここであくまでも、三者ということが重要です。二者ならば対立といいます。
鼎談(ていだん)=三人で会談すること。
したがって、親子面談は、鼎談ともいえますね。^±^
さて、鼎とはどういうものか?
具体的に、見たことがない方も多いかも・・・。
いや、厳密に言うと、気がつかない方が大半なのかも。^±^
この線香立てですね。

元々は、調理鍋から来ているという説がありますよ。

ばちが当たらない程度に、調べてみてください。^±^ノ
たぶん皆様の線香立ての下は、3本足と思いますよ。^±^
それから香炉もそうですかね。

3本足の鼎型ですね。^±^

ここで疑問がふつふつと、沸いてきたのであります。
なぜ鼎の足が三本なのか?^±^ ←こいつは人間より毛が三本足りないが
中国は「三」という数字を縁起のいい数字として扱っておりますね。
それも鼎の足を関連しているのではないかと思っているのです。
まず、物理的に、足が二本ですと安定性が悪いですが、三本あればどっしりしますね。
しかし、四本あっても、四は縁起が悪いというなら、五本あってもいいのであるし・・・。
中国では元々「三」の基本的な意味として「三才(天・地・人)」があげられます。
もしくは、仏用語では、三宝に帰依する「仏・法・僧」ってのがありますよね。
この鼎の足も、ここら辺にヒントが隠されているのではないかと思えてならないんで、あちらこちらを調べましても、なかなか答えが出ないのです。
ただ、後者の「三宝一体」のどれか一つが欠けていても鼎の本来の用をなさないという意味合いから、どうも仏法僧説がとてもくさいと思ったのであります。
くさいのはお前の屁だろうが!(゚Д゚)ノx±x
大体において、お前の説は詭弁が多いぞ!(゚Д゚)ノx±x…いや、まんざら嘘でもないと思うが
詭弁といわれちゃ仕方があるまい、さらに調べてみました。
すると、漢字の部首からある答えが出てきました。
それによると、鼎は、
1.三足両耳を備え、食物を煮炊きする食器として、また功績を銘に刻んだりする礼器として用いられたこと
2.政権・王権の比喩として使われたこと
3.三足あることから三つどもえの戦いの比喩として用いられたこと(三国鼎立)
4.六十四卦の一つとしても用いられたこと
以上のことがわかりました。^±^
これらを踏まえて、結論:鼎の足の3本の意味は「三つ巴」、戦いの比喩である、と言うのが正しそうです。
お前の言い方は回りくどいぞ!(゚Д゚)ノx±x
最初から結論を出せ!(゚Д゚)ノx±x>=3<
誰がケツを出せと言った!(゚Д゚)ノx±x。>=3<
そのほか、鼎に関する言葉。
鼎の軽重を問う(かなえのけいちょうをとう)=上位の者の権威を疑って、地位を奪おうとすること。2.他人の実力や権威などを疑う事(特に地位の高い人に用いられる)です。
春秋左氏伝がその由来で、中国周の朝廷に、楚の荘王(春秋五覇の一人で王は僭称。楚は子爵位の国)が王位の象徴である九鼎の重さを問い、暗に、九鼎より大きな鼎を鋳造して、周王を蹴落して自分が王になることを示唆したが、周王の使者である王孫滿に諌められたという故事からきてます。
定王は、王孫滿を荘王(楚子)への(西方の異民族討伐の)ねぎらいの使者としました。
そこで荘王が周王室の鼎の寸法を尋ねました。
王孫滿がそれに答えて、
「周の王室が保たれているのは、その徳行の故であり、鼎があるからではありません。(夏、殷がその徳行により興亡したことを語り)今、周の王室は、昔よりその威光が衰えてはいますが、天命によって、まだ代わったわけではありません。鼎の軽重を問うのは不遜というものです」と。
鼎は帝位の象徴なのですね。^±^
注意:説明不足なので補遺を入れます。^±^…あっち向いてホイ
「線香立て」はあくまでも名称は「線香立て」で、鼎という名前ではありません。
ですが、昔、中国で使った「鼎」に関連がとても深いのです。
現在、身近に見られる、鼎の末裔(まつえい)ともいえるものでしょう。
「香炉」も呼び名はあくまでも「香炉」ですが、このような三本足のものを「鼎形香炉」といいます。
JPONICA(ジャポニカ)大日本百科事典には以下のとおり記されてます。
中国古銅器のうち食物を煮る三足の器。先史時代の土器を祖型とする。因周時代には、祭器として尊ばれ、権威の象徴でもあって、奇怪な動物文や銘文をつけたものが多い。戦国時代には、貴族の日用の器となり、華美な装飾が施されたが、漢代には無文となり、六朝時代(りくちょうじだい)には衰えた。隋唐以後は、本来の用途から離れ、香炉の形として面影をとどめるだけになった…。
そして、長野県の飯田線に「鼎」という駅があります。

1875年(明治8年)1月23日に、山村・名古熊村・一色村が合併し、筑摩県伊那郡鼎村が発足されましたが、3村の合併を古来中国に伝わる三脚の器である鼎にちなみ、飯田市立鼎小学校初代校長が命名したのだそうです。
大層なものかと思ったら、校長先生が命名しただけだったって・・・^±^;
その後、1876年(明治9年)に筑摩県が長野県となり、1881年(明治14年)には、いったん稲井村を分離しますが、1889年(明治22年)4月1日に町村制施行で、鼎村と稲井村が合併して下伊那郡鼎村が成立。
1954年(昭和29年)4月1日、鼎村が町制施行して鼎町発足。
1984年(昭和59年)12月1日、飯田市へ編入し、現在に至ってます。
何だ、校長先生がつけたのか・・・。x±x
鼎駅のWIKIです。^±^
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%8E%E9%A7%85
ではでは。^±^ノ
のぞみ、かなえ、たまえ・・・ではありましぇん。+±+
欽どこか!(゚Д゚)ノx±x
鼎はもともとは金瓮(かなへ)=在の鍋・釜の用に当てた古代中国の金属製の器の意味です。
肉、魚、穀物を煮炊きする土器として出現したが、同時に宗廟において祖先神を祀る際にいけにえの肉を煮るために用いられたことから礼器の地位に高められ、精巧に作られた青銅器の鼎は国家の君主や大臣などの権力の象徴として用いられたといいます。
また、鼎は3本足なので、それを譬えにする言葉があります。
鼎立(ていりつ)=三者が互いに対立すること。
ここであくまでも、三者ということが重要です。二者ならば対立といいます。
鼎談(ていだん)=三人で会談すること。
したがって、親子面談は、鼎談ともいえますね。^±^
さて、鼎とはどういうものか?
具体的に、見たことがない方も多いかも・・・。
いや、厳密に言うと、気がつかない方が大半なのかも。^±^
この線香立てですね。

元々は、調理鍋から来ているという説がありますよ。

ばちが当たらない程度に、調べてみてください。^±^ノ
たぶん皆様の線香立ての下は、3本足と思いますよ。^±^
それから香炉もそうですかね。

3本足の鼎型ですね。^±^

ここで疑問がふつふつと、沸いてきたのであります。
なぜ鼎の足が三本なのか?^±^ ←こいつは人間より毛が三本足りないが
中国は「三」という数字を縁起のいい数字として扱っておりますね。
それも鼎の足を関連しているのではないかと思っているのです。
まず、物理的に、足が二本ですと安定性が悪いですが、三本あればどっしりしますね。
しかし、四本あっても、四は縁起が悪いというなら、五本あってもいいのであるし・・・。
中国では元々「三」の基本的な意味として「三才(天・地・人)」があげられます。
もしくは、仏用語では、三宝に帰依する「仏・法・僧」ってのがありますよね。
この鼎の足も、ここら辺にヒントが隠されているのではないかと思えてならないんで、あちらこちらを調べましても、なかなか答えが出ないのです。
ただ、後者の「三宝一体」のどれか一つが欠けていても鼎の本来の用をなさないという意味合いから、どうも仏法僧説がとてもくさいと思ったのであります。
くさいのはお前の屁だろうが!(゚Д゚)ノx±x
大体において、お前の説は詭弁が多いぞ!(゚Д゚)ノx±x…いや、まんざら嘘でもないと思うが
詭弁といわれちゃ仕方があるまい、さらに調べてみました。
すると、漢字の部首からある答えが出てきました。
それによると、鼎は、
1.三足両耳を備え、食物を煮炊きする食器として、また功績を銘に刻んだりする礼器として用いられたこと
2.政権・王権の比喩として使われたこと
3.三足あることから三つどもえの戦いの比喩として用いられたこと(三国鼎立)
4.六十四卦の一つとしても用いられたこと
以上のことがわかりました。^±^
これらを踏まえて、結論:鼎の足の3本の意味は「三つ巴」、戦いの比喩である、と言うのが正しそうです。
お前の言い方は回りくどいぞ!(゚Д゚)ノx±x
最初から結論を出せ!(゚Д゚)ノx±x>=3<
誰がケツを出せと言った!(゚Д゚)ノx±x。>=3<
そのほか、鼎に関する言葉。
鼎の軽重を問う(かなえのけいちょうをとう)=上位の者の権威を疑って、地位を奪おうとすること。2.他人の実力や権威などを疑う事(特に地位の高い人に用いられる)です。
春秋左氏伝がその由来で、中国周の朝廷に、楚の荘王(春秋五覇の一人で王は僭称。楚は子爵位の国)が王位の象徴である九鼎の重さを問い、暗に、九鼎より大きな鼎を鋳造して、周王を蹴落して自分が王になることを示唆したが、周王の使者である王孫滿に諌められたという故事からきてます。
定王は、王孫滿を荘王(楚子)への(西方の異民族討伐の)ねぎらいの使者としました。
そこで荘王が周王室の鼎の寸法を尋ねました。
王孫滿がそれに答えて、
「周の王室が保たれているのは、その徳行の故であり、鼎があるからではありません。(夏、殷がその徳行により興亡したことを語り)今、周の王室は、昔よりその威光が衰えてはいますが、天命によって、まだ代わったわけではありません。鼎の軽重を問うのは不遜というものです」と。
鼎は帝位の象徴なのですね。^±^
注意:説明不足なので補遺を入れます。^±^…あっち向いてホイ
「線香立て」はあくまでも名称は「線香立て」で、鼎という名前ではありません。
ですが、昔、中国で使った「鼎」に関連がとても深いのです。
現在、身近に見られる、鼎の末裔(まつえい)ともいえるものでしょう。
「香炉」も呼び名はあくまでも「香炉」ですが、このような三本足のものを「鼎形香炉」といいます。
JPONICA(ジャポニカ)大日本百科事典には以下のとおり記されてます。
中国古銅器のうち食物を煮る三足の器。先史時代の土器を祖型とする。因周時代には、祭器として尊ばれ、権威の象徴でもあって、奇怪な動物文や銘文をつけたものが多い。戦国時代には、貴族の日用の器となり、華美な装飾が施されたが、漢代には無文となり、六朝時代(りくちょうじだい)には衰えた。隋唐以後は、本来の用途から離れ、香炉の形として面影をとどめるだけになった…。
そして、長野県の飯田線に「鼎」という駅があります。

1875年(明治8年)1月23日に、山村・名古熊村・一色村が合併し、筑摩県伊那郡鼎村が発足されましたが、3村の合併を古来中国に伝わる三脚の器である鼎にちなみ、飯田市立鼎小学校初代校長が命名したのだそうです。
大層なものかと思ったら、校長先生が命名しただけだったって・・・^±^;
その後、1876年(明治9年)に筑摩県が長野県となり、1881年(明治14年)には、いったん稲井村を分離しますが、1889年(明治22年)4月1日に町村制施行で、鼎村と稲井村が合併して下伊那郡鼎村が成立。
1954年(昭和29年)4月1日、鼎村が町制施行して鼎町発足。
1984年(昭和59年)12月1日、飯田市へ編入し、現在に至ってます。
何だ、校長先生がつけたのか・・・。x±x
鼎駅のWIKIです。^±^
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%8E%E9%A7%85
ではでは。^±^ノ
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