ググッとぐんまへの旅、その2。^±^ノ…新島襄記念館2
ググッとぐんま、続いてます。^±^ノ
引き続き、新島襄記念館です。
今回はほとんどがサムネイルです。クリックしてご覧くださいね。^±^ノ
なお、係員さんに聞いてみたら、撮影OKでしたので撮らせていただきました。

こちらは、新島襄の父親と母親。

弟の新島雙六です。

新島襄の米国留学免許状です。

英語が堪能ということで、文部理事官通弁辞令です。

八重の「人となり」です。西洋風の考えで、新島襄を呼び捨てにしてたそうです。
山本八重は、兄の山本覚馬(やまもとかくま)の紹介で出会ったとありますね。
最初はご存知の通り、川崎尚之助と結婚。会津若松城が落城し、父が戦死し、このときに夫と離別とあります。
そして京都に移り、新島襄と出会ったのですがね。^±^
八重は「文武両道」に長けていて、教師も武道も何でもできましたからね、^±^ノ

新島襄が「彼女は見た目は美しくないが生き方がハンサムだ」と絶賛したといいます。
お前は見た目も生き方も美しくないけどな!(゚Д゚)ノx±x…ほっといてよもー
ってか、フォローにもになってないぞ!(゚Д゚)ノx±x
「見た目は美しくない」なんて、八重にとっては、余計なお世話だかんな!(゚Д゚)ノx±x

新島八重が新島襄の昇天二十年目で安中に訪れた際、安中教会から寄付を受け、羽織を新調できたとの礼状を、教会に宛てた手紙です。
律儀なんですね。^±^ノ




扇子も贈られたものかなあ。
また、その名前のところでは、「新島八重」でなく「新島八重子」とありますね。^±^

このように新島襄のことがわかる資料館です。
ちなみに、 上毛カルタの「へ」は、「平和の使い 新島襄」です。

新島襄は同志社大学の創始者でもありますね。

新島襄の肖像ですが、ハンサムですよね。
新島襄は、1843年、江戸の神田錦町にあった上州安中藩江戸屋敷にて、安中藩士・新島民治の子として生まれます。
幼少名は、七五三太(しめた)です。^±^
祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説もあります。
その後、敬幹(けいかん)と改名しますがね。
かっこいいですね。^±^ノ
でも、藤田まことさんにも似てますよね。^±^; ボソッ
余計なことを言いやがって!(゚Д゚)ノx±x
ふざけるなよな!(゚Д゚)ノx±x

元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かいます。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。カサートキンは七五三太から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ七五三太に自分の弟子になるよう勧めましたが七五三太のアメリカ行きの意思は変わらずカサートキンはそれに折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に七五三太の密航に協力したとのことです。
6月14日(7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国します。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗ったそうです。
ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学します。
慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受けます。慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業、明治3年(1870年)にアマースト大学を卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得です。アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていたそうです。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなりました。当初、密入国者として渡米した襄でしたが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可されました。
明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会います。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させました。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねました。その後ベルリンにもどって約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集しましたが、これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えています。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査しました。
その後、安中教会を設立し、京都府顧問だった山本覚馬の賛同を得て同志社大学を創設し、広く活躍しました。
そのとき、八重との縁が始まり、二人は結婚しました。
晩年、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて満46歳没。死因は急性腹膜炎。
最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
なお、こちらでは、資料や本も売ってます。

新島家の家系図です。

新島襄と八重夫妻です。
見た目が美しくないどころか、結構かわいらしいと思います。^±^
八重たん、伊集院光さんに似てますよね。^±^; ボソッ
また余計なことを!(゚Д゚)ノx±x
ふざけるな!(゚Д゚)ノx±x

もっと部分的に拡大しますね。^±^ノ
新島八重、肖像画です。

結婚後間もない新島襄と八重夫妻です。

安中教会にいらっしゃった新島八重です。

上の夫妻写真の全体像です。

・・・藤田まことさんと伊集院光さんでは、ありましぇん。+±+
新島八重たん、拡大図です。^±^;

帽子を持っていて、おしゃれだし、どこかしら愛嬌がある素敵なお顔ですけど。
・・・やっぱり伊集院光さんだよなあ。^±^; ボソッ
「ふざけんな!」と言っただろうが!(゚Д゚)ノx±x
どこかで見たことがある「真理似寒梅」・・・。

うちの玄関に飾られていたのでした。^±^
寒梅の色紙。^±^ノ
そういえば、土井さんも同志社大学だったなあ。^±^;
八重は4回、安中にいらっしゃったそうです。^±^

こちらは安中教会です。

古橋柳太郎の設計によるもので、ゴシック様式の基本としてます。構造は大谷石の組石造りで2階建て、鐘塔付。
自分を罰する新島襄だそうですが。^±^;
何だ、何だ、何をやらかしたんだ?^±^;

「自責の杖事件」で、自らを罰する新島襄です。
開校5年後に起きた学園紛争で、2年生の2クラス上級組と下級組を合併するという学校の方針に反対した上級組みが、授業をボイコットしました。新島襄は「今回の紛争は学生や教師たちの責任ではない。すべては校長たる自分の責任である。よって校長を罰する」と言い、朝礼の時に自らの掌を杖で強く打ちつけました。
これが「自責の杖事件」のいきさつですが、杖は真っ二つに折れたそうです。
八重たんを伊集院光さんだと言ったお前も、自責の杖で自分の掌を打てよな!(゚Д゚)ノx±x
新島襄、グッドバイのご臨終です。+±+

新島襄の墓は京都にあります。

資料館は以上です。
ではもう一度部屋(上段の間)を覘きましょう。

「上段の間」の、掛け軸と肖像画です。

「八重の桜」ブームもあってか、混んでます。^±^

この後、叔父の家に行ってから、榛名湖へ。
その様子は明日また。^±^ノ
引き続き、新島襄記念館です。
今回はほとんどがサムネイルです。クリックしてご覧くださいね。^±^ノ
なお、係員さんに聞いてみたら、撮影OKでしたので撮らせていただきました。

こちらは、新島襄の父親と母親。

弟の新島雙六です。

新島襄の米国留学免許状です。

英語が堪能ということで、文部理事官通弁辞令です。

八重の「人となり」です。西洋風の考えで、新島襄を呼び捨てにしてたそうです。
山本八重は、兄の山本覚馬(やまもとかくま)の紹介で出会ったとありますね。
最初はご存知の通り、川崎尚之助と結婚。会津若松城が落城し、父が戦死し、このときに夫と離別とあります。
そして京都に移り、新島襄と出会ったのですがね。^±^
八重は「文武両道」に長けていて、教師も武道も何でもできましたからね、^±^ノ

新島襄が「彼女は見た目は美しくないが生き方がハンサムだ」と絶賛したといいます。
お前は見た目も生き方も美しくないけどな!(゚Д゚)ノx±x…ほっといてよもー
ってか、フォローにもになってないぞ!(゚Д゚)ノx±x
「見た目は美しくない」なんて、八重にとっては、余計なお世話だかんな!(゚Д゚)ノx±x

新島八重が新島襄の昇天二十年目で安中に訪れた際、安中教会から寄付を受け、羽織を新調できたとの礼状を、教会に宛てた手紙です。
律儀なんですね。^±^ノ




扇子も贈られたものかなあ。
また、その名前のところでは、「新島八重」でなく「新島八重子」とありますね。^±^

このように新島襄のことがわかる資料館です。
ちなみに、 上毛カルタの「へ」は、「平和の使い 新島襄」です。

新島襄は同志社大学の創始者でもありますね。

新島襄の肖像ですが、ハンサムですよね。
新島襄は、1843年、江戸の神田錦町にあった上州安中藩江戸屋敷にて、安中藩士・新島民治の子として生まれます。
幼少名は、七五三太(しめた)です。^±^
祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説もあります。
その後、敬幹(けいかん)と改名しますがね。
かっこいいですね。^±^ノ
でも、藤田まことさんにも似てますよね。^±^; ボソッ
余計なことを言いやがって!(゚Д゚)ノx±x
ふざけるなよな!(゚Д゚)ノx±x

元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かいます。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。カサートキンは七五三太から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ七五三太に自分の弟子になるよう勧めましたが七五三太のアメリカ行きの意思は変わらずカサートキンはそれに折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に七五三太の密航に協力したとのことです。
6月14日(7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国します。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗ったそうです。
ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学します。
慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受けます。慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業、明治3年(1870年)にアマースト大学を卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得です。アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていたそうです。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなりました。当初、密入国者として渡米した襄でしたが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可されました。
明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会います。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させました。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねました。その後ベルリンにもどって約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集しましたが、これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えています。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査しました。
その後、安中教会を設立し、京都府顧問だった山本覚馬の賛同を得て同志社大学を創設し、広く活躍しました。
そのとき、八重との縁が始まり、二人は結婚しました。
晩年、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて満46歳没。死因は急性腹膜炎。
最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
なお、こちらでは、資料や本も売ってます。

新島家の家系図です。

新島襄と八重夫妻です。
見た目が美しくないどころか、結構かわいらしいと思います。^±^
八重たん、伊集院光さんに似てますよね。^±^; ボソッ
また余計なことを!(゚Д゚)ノx±x
ふざけるな!(゚Д゚)ノx±x

もっと部分的に拡大しますね。^±^ノ
新島八重、肖像画です。

結婚後間もない新島襄と八重夫妻です。

安中教会にいらっしゃった新島八重です。

上の夫妻写真の全体像です。

・・・藤田まことさんと伊集院光さんでは、ありましぇん。+±+
新島八重たん、拡大図です。^±^;

帽子を持っていて、おしゃれだし、どこかしら愛嬌がある素敵なお顔ですけど。
・・・やっぱり伊集院光さんだよなあ。^±^; ボソッ
「ふざけんな!」と言っただろうが!(゚Д゚)ノx±x
どこかで見たことがある「真理似寒梅」・・・。

うちの玄関に飾られていたのでした。^±^
寒梅の色紙。^±^ノ
そういえば、土井さんも同志社大学だったなあ。^±^;
八重は4回、安中にいらっしゃったそうです。^±^

こちらは安中教会です。

古橋柳太郎の設計によるもので、ゴシック様式の基本としてます。構造は大谷石の組石造りで2階建て、鐘塔付。
自分を罰する新島襄だそうですが。^±^;
何だ、何だ、何をやらかしたんだ?^±^;

「自責の杖事件」で、自らを罰する新島襄です。
開校5年後に起きた学園紛争で、2年生の2クラス上級組と下級組を合併するという学校の方針に反対した上級組みが、授業をボイコットしました。新島襄は「今回の紛争は学生や教師たちの責任ではない。すべては校長たる自分の責任である。よって校長を罰する」と言い、朝礼の時に自らの掌を杖で強く打ちつけました。
これが「自責の杖事件」のいきさつですが、杖は真っ二つに折れたそうです。
八重たんを伊集院光さんだと言ったお前も、自責の杖で自分の掌を打てよな!(゚Д゚)ノx±x
新島襄、グッドバイのご臨終です。+±+

新島襄の墓は京都にあります。

資料館は以上です。
ではもう一度部屋(上段の間)を覘きましょう。

「上段の間」の、掛け軸と肖像画です。

「八重の桜」ブームもあってか、混んでます。^±^

この後、叔父の家に行ってから、榛名湖へ。
その様子は明日また。^±^ノ
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