とでんものがたり・09系統=渋谷駅前~新佃島
09系統=渋谷駅前~新佃島=昭和43年(1968年)9月29日廃止・青山一丁目~三宅坂、経由地変更により昭和38年(1963年)10月1日廃止・渋谷駅前~浜町中の橋を渋谷駅前~新佃島に、昭和42年(1967年)12月10日行先変更
注釈
1.大体1950年代の地名、26系統があったころの、昭和27年(1952年)5月21日以前と考え、当時の地名の電停名で載せてます。
但し、出所の都電路線図があやふやなので、当時の電停名とは必ずしも一致していないかもしれません。
2.( )は、地名の変更・電停変更等による改名後の電停名です。
3.【 】は、新しく設置された電停名です。
4.この系統で、廃止された日時別に、色分けで示しています。
5.×は、廃止停留所です。
赤色=昭和43年(1968年)9月29日廃止
紫色=昭和42年(1967年)12月10日変更
青色=昭和38年(1963年)10月1日廃止
渋谷駅=青山車庫前=青山六丁目(南青山五丁目)=明治神宮(神宮外苑前)=青山五丁目(北青山二丁目)=青山四丁目×=青山三丁目(南青山二丁目)=青山一丁目(北青山一丁目)=赤坂表町=豊川稲荷=赤坂見附=平河町二丁目=三宅坂=議事堂=桜田門=日比谷(日比谷公園)=数寄屋橋=銀座四丁目=三原橋=築地=築地二丁目=新富町=桜橋=西八丁堀(西八丁堀二丁目)=茅場町=蠣殻町「かきがらちょう」=水天宮=浜町中の橋
=青山一丁目(北青山一丁目)=新坂町(赤坂八丁目)=竜土町=六本木=三河台町=飯倉片町=飯倉一丁目=神谷町=巴町(西久保巴町)=虎ノ門=霞ヶ関=桜田門=
=築地=勝鬨橋「かちどきばし」=月島通八丁目(月島)=月島通三丁目(月島三丁目)=新佃島
昔の東京の路面電車。^±^ノ
1.=は、都電が走ってた区間です。
2.~は、都電が早々と廃止された区間です。
3.×は、廃止された電停です。
4.( )は、その後に改正された電停名です(わかりやすいように)。
5.(←注釈)は、注釈入りです。
6.?は不明のもの、位置不明、もしくは電停が一致しているか不明など
青緑色=1923年(大正2年)12月、東京市電。
深緑色=撤廃路線
中渋谷ステーション前(渋谷駅前)=宮益坂下×=宮益坂上×=青山七丁目(青山車庫前)=青山六丁目=(=善光寺前=青山五丁目=青山四丁目=青山三丁目=青山一丁目=表町三丁目=豊川稲荷前=赤坂見附=赤坂見附上(平河町二丁目)=三宅坂=参謀本部前(議事堂)=桜田門=日比谷=数寄屋橋=銀座尾張町(銀座四丁目)=木挽町(三原橋)=本願寺前(築地)=築地橋(築地二丁目)=新富町=桜橋=八丁堀(西八丁堀)=北島町×=茅場町=蠣殻町「かきがらちょう」=水天宮前=人形町~久松町~浜町(浜町河岸)~両国
茶色=1935年(昭和10年)、東京市電末期。
深緑色=撤廃路線
渋谷駅=青山車庫前=青山六丁目=明治神宮前=青山五丁目=青山四丁目=青山三丁目=青山一丁目=赤坂表町=豊川稲荷=赤坂見附=平河町五丁目(平河町二丁目)=三宅坂=桜田門=日比谷=数寄屋橋=銀座四丁目=三原橋=築地=築地二丁目=新富町=桜橋=西八丁堀三丁目×=西八丁堀一丁目×=茅場町=蠣殻町「かきがらちょう」=水天宮前=人形町~久松町~浜町河岸~両国
注釈
人形町~両国、元々「渋谷~両国間」を走っていた、1944年(昭和19年)5月4日廃止。
都電地図。^±^ノ
都電地図です。内容は以下の通りです。
昭和35年・都電とトロリーバス地図(4枚)、昭和43年都電(4枚)、昭和46年都電(1枚)
下記をクリックしてください。^±^
都電地図。^±^ノ
都電目次。^±^ノ
どうでもいい余話。^±^;
渋谷は、「ハチブドウ酒」のネオンが真っ先に浮かびます。^±^;
点滅方式でなく、つきっぱなしのつまらないネオンでしたが、どうして記憶に残ってるのかはわかりません。
ただ、おならが出たいとき、「ハチが屁をして、ハチ「ブッ」ドウシュ!」と言いながら、屁をこいてました。
くだらないダジャレにもならんぞ!(゚Д゚)ノ。x±x。
さて、下の地図をご覧くださいませ。^±^ノ
恥ずかしながら、渋谷駅前にある、「金王町」ですが、「王」を「玉」と読み間違いしてしまいました。
一字違いで、大違い。^±^:
最後はお前得意のシモネタかよっ!(゚Д゚)ノ。x±x。
とでんものがたり。^±^ノ
写真は、1024ピクセルのサムネイル版で、やや大きな写真です。
クリックしていただければ、より大きな画像となります。
「渋谷」の比較です。
1954年(昭和29年)6月10日です。

1960年(昭和35年)2月1日です。

この路線は少し複雑ですね。昭和38年の経路変更は、東京オリンピックに向けて、高速道路を建設するために邪魔だったと言います。
高速道路が開通したら元に戻せばいいものを、戻せずに廃止。
というのも、1964年(昭和39年)のオリンピックから、東京都区内のデベロッパーが盛んになり、車も急激に増えて、そのまんま終わりました。
もっとも、復帰しても2~3年後には廃止でしたからね。^±^;
昭和29年と昭和35年とでは、都電の乗り場の位置が違います。
昭和29年は西口から出ていたのですね。
また、昭和35年は、渋谷駅周辺の都電は、三角州状に路線が伸びていますね。
都電最盛期の証左(しょうさ)でもありますね。
昭和35年にはトロリーバスもつながっていて、ごちゃごちゃとしています。
なお、渋谷は、中野に住んでいた時、直接の路線バスもあったので電車で行くこともあればバスで行くこともありました。
そうそう、新橋にもバスで行くこともありました。^±^ノ
時間はかかりましたがね。+±+
「新富町」は、もともと、大富町が現在の「新富」の西側にあり、新島原の「新」と大富町の「富」とを合わせてつけられたという説があります。
「八丁堀」は寛永年間(1624〜1643年)に造られた堀なのだそうです。由来は当然その掘割からきています。
その堀の長さが八町(約872m)あったので、この名前が付いたということです。
~~~~~~~~~~
とでんものがたり09=明治時代の市電その⑨=市電合併のいきさつ
1906年(明治39年)3月、東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の三社が一斉に運賃を5銭に値上げ申請します。
すると日比谷公園に数千人の市民が集まり、一斉に抗議、デモ行進をし、投石をする者も出てきます。ついには夜間運転を中止するまでに至ります。
そのため、東京府は値上げの却下をしましたが、鉄道の各会社は収まらず、会社を合併し、経営合理化を理由に値上げ申請。
結局、同年9月10日、「東京鉄道株式会社」発足と同時に4銭に値上げされてしまいます。
注釈
1.大体1950年代の地名、26系統があったころの、昭和27年(1952年)5月21日以前と考え、当時の地名の電停名で載せてます。
但し、出所の都電路線図があやふやなので、当時の電停名とは必ずしも一致していないかもしれません。
2.( )は、地名の変更・電停変更等による改名後の電停名です。
3.【 】は、新しく設置された電停名です。
4.この系統で、廃止された日時別に、色分けで示しています。
5.×は、廃止停留所です。
赤色=昭和43年(1968年)9月29日廃止
紫色=昭和42年(1967年)12月10日変更
青色=昭和38年(1963年)10月1日廃止
渋谷駅=青山車庫前=青山六丁目(南青山五丁目)=明治神宮(神宮外苑前)=青山五丁目(北青山二丁目)=青山四丁目×=青山三丁目(南青山二丁目)=青山一丁目(北青山一丁目)=赤坂表町=豊川稲荷=赤坂見附=平河町二丁目=三宅坂=議事堂=桜田門=日比谷(日比谷公園)=数寄屋橋=銀座四丁目=三原橋=築地=築地二丁目=新富町=桜橋=西八丁堀(西八丁堀二丁目)=茅場町=蠣殻町「かきがらちょう」=水天宮=浜町中の橋
=青山一丁目(北青山一丁目)=新坂町(赤坂八丁目)=竜土町=六本木=三河台町=飯倉片町=飯倉一丁目=神谷町=巴町(西久保巴町)=虎ノ門=霞ヶ関=桜田門=
=築地=勝鬨橋「かちどきばし」=月島通八丁目(月島)=月島通三丁目(月島三丁目)=新佃島
昔の東京の路面電車。^±^ノ
1.=は、都電が走ってた区間です。
2.~は、都電が早々と廃止された区間です。
3.×は、廃止された電停です。
4.( )は、その後に改正された電停名です(わかりやすいように)。
5.(←注釈)は、注釈入りです。
6.?は不明のもの、位置不明、もしくは電停が一致しているか不明など
青緑色=1923年(大正2年)12月、東京市電。
深緑色=撤廃路線
中渋谷ステーション前(渋谷駅前)=宮益坂下×=宮益坂上×=青山七丁目(青山車庫前)=青山六丁目=(=善光寺前=青山五丁目=青山四丁目=青山三丁目=青山一丁目=表町三丁目=豊川稲荷前=赤坂見附=赤坂見附上(平河町二丁目)=三宅坂=参謀本部前(議事堂)=桜田門=日比谷=数寄屋橋=銀座尾張町(銀座四丁目)=木挽町(三原橋)=本願寺前(築地)=築地橋(築地二丁目)=新富町=桜橋=八丁堀(西八丁堀)=北島町×=茅場町=蠣殻町「かきがらちょう」=水天宮前=人形町~久松町~浜町(浜町河岸)~両国
茶色=1935年(昭和10年)、東京市電末期。
深緑色=撤廃路線
渋谷駅=青山車庫前=青山六丁目=明治神宮前=青山五丁目=青山四丁目=青山三丁目=青山一丁目=赤坂表町=豊川稲荷=赤坂見附=平河町五丁目(平河町二丁目)=三宅坂=桜田門=日比谷=数寄屋橋=銀座四丁目=三原橋=築地=築地二丁目=新富町=桜橋=西八丁堀三丁目×=西八丁堀一丁目×=茅場町=蠣殻町「かきがらちょう」=水天宮前=人形町~久松町~浜町河岸~両国
注釈
人形町~両国、元々「渋谷~両国間」を走っていた、1944年(昭和19年)5月4日廃止。
都電地図。^±^ノ
都電地図です。内容は以下の通りです。
昭和35年・都電とトロリーバス地図(4枚)、昭和43年都電(4枚)、昭和46年都電(1枚)
下記をクリックしてください。^±^
都電地図。^±^ノ
都電目次。^±^ノ
どうでもいい余話。^±^;
渋谷は、「ハチブドウ酒」のネオンが真っ先に浮かびます。^±^;
点滅方式でなく、つきっぱなしのつまらないネオンでしたが、どうして記憶に残ってるのかはわかりません。
ただ、おならが出たいとき、「ハチが屁をして、ハチ「ブッ」ドウシュ!」と言いながら、屁をこいてました。
くだらないダジャレにもならんぞ!(゚Д゚)ノ。x±x。
さて、下の地図をご覧くださいませ。^±^ノ
恥ずかしながら、渋谷駅前にある、「金王町」ですが、「王」を「玉」と読み間違いしてしまいました。
一字違いで、大違い。^±^:
最後はお前得意のシモネタかよっ!(゚Д゚)ノ。x±x。
とでんものがたり。^±^ノ
写真は、1024ピクセルのサムネイル版で、やや大きな写真です。
クリックしていただければ、より大きな画像となります。
「渋谷」の比較です。
1954年(昭和29年)6月10日です。

1960年(昭和35年)2月1日です。

この路線は少し複雑ですね。昭和38年の経路変更は、東京オリンピックに向けて、高速道路を建設するために邪魔だったと言います。
高速道路が開通したら元に戻せばいいものを、戻せずに廃止。
というのも、1964年(昭和39年)のオリンピックから、東京都区内のデベロッパーが盛んになり、車も急激に増えて、そのまんま終わりました。
もっとも、復帰しても2~3年後には廃止でしたからね。^±^;
昭和29年と昭和35年とでは、都電の乗り場の位置が違います。
昭和29年は西口から出ていたのですね。
また、昭和35年は、渋谷駅周辺の都電は、三角州状に路線が伸びていますね。
都電最盛期の証左(しょうさ)でもありますね。
昭和35年にはトロリーバスもつながっていて、ごちゃごちゃとしています。
なお、渋谷は、中野に住んでいた時、直接の路線バスもあったので電車で行くこともあればバスで行くこともありました。
そうそう、新橋にもバスで行くこともありました。^±^ノ
時間はかかりましたがね。+±+
「新富町」は、もともと、大富町が現在の「新富」の西側にあり、新島原の「新」と大富町の「富」とを合わせてつけられたという説があります。
「八丁堀」は寛永年間(1624〜1643年)に造られた堀なのだそうです。由来は当然その掘割からきています。
その堀の長さが八町(約872m)あったので、この名前が付いたということです。
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とでんものがたり09=明治時代の市電その⑨=市電合併のいきさつ
1906年(明治39年)3月、東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の三社が一斉に運賃を5銭に値上げ申請します。
すると日比谷公園に数千人の市民が集まり、一斉に抗議、デモ行進をし、投石をする者も出てきます。ついには夜間運転を中止するまでに至ります。
そのため、東京府は値上げの却下をしましたが、鉄道の各会社は収まらず、会社を合併し、経営合理化を理由に値上げ申請。
結局、同年9月10日、「東京鉄道株式会社」発足と同時に4銭に値上げされてしまいます。
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